
2023年4月25日のマンション・ラボの表題の記事を紹介します。
「マンションは建設会社が主体となり、さまざまな業者が関わって作るのが常識。ところが設計から基礎工事、さらには内装まで、なんと夫婦ふたりだけで作り上げた物件があるのです。それが、高知県高知市にある沢田マンション。建物は地下1階、地上5階建ての鉄筋コンクリート造り。土地面積は550坪。初めて聞く人は、にわかに信じられないかもしれませんね。それでも1972年に入居を開始して以来、今も多くの住民が生活を営んでいます。

建築のプロも注目をする唯一無二のマンション
沢田マンションが建つのは高知市薊野北町。JR高知駅から車で10分ほどの住宅街です。建てたのは、沢田嘉農さん(故人)と裕江さんご夫婦。まずは建て売り住宅の建設からスタート、すべてを自分たちだけで作るセルフビルド建築のキャリアを重ね、その集大成として沢田マンションを手がけました。1971年に着工、全3期に分けて工事を進め、現在の規模に至ったのが1985年といわれています。 夫婦ふたりだけで建てたマンションは噂となり、やがてマスコミの目に留まることに。テレビで「高知の九龍城」などとユニークなマンションとして取り上げられることもありました。興味本位で報道される一方、建物としての価値を見いだした建築の専門家が各地から訪れるようになります。常識に囚われない工法。自在なパブリックスペース。工夫の数々。一般のマンションではまず見ることのできないものが、あまりにも多いのです。

では、住み心地はどうなのでしょうか。現在、総戸数は68戸ですが、ほとんどの部屋が埋まっている状況。比較的年配の居住者が多いものの、若者の入居者も増えているそう。いったい、沢田マンションのどこが人を惹きつけるのでしょうか。ここからは、その内部をご紹介しましょう。




建物内を巡るスロープがバリアフリー時代に対応
沢田マンションは外壁が白いペンキで塗られており、どっしりと重厚な雰囲気。地下が駐車場で1階から4階まで賃貸の居住区、5階に大家の沢田裕江さんと2人の娘さんのご家族が住んでいます。建物の入口に立つとまず目に入るのが、野菜やお米の無人販売コーナーとショップの手造り看板。ここが居住者以外の人々にも開かれたマンションであることがわかります。



ゆるやかな坂を上り、敷地内へ。1階の入口に近い場所はテナントになっていて、リラクゼーションショップ、ギャラリーカフェ、イタリアンカフェが入っています。ギャラリーは住民のひとりが主宰し、二十数名のアーティストが順次作品を発表しているそう。ギャラリーを併設し、身近にアートがあるマンションなんて、ちょっと素敵です。 テナントの前からは、2本のスロープが延びています。1本は地下駐車場へ向かう下り坂。もう1本は上階へ向かう上り坂。この上りのスロープは2階と3階に枝分かれし、さらにマンションの内部を突っ切り裏手に回り、4階、5階へと続きます。このスロープが沢田マンションのメインストリート。上階の住人も玄関から自転車で外出でき、その気になれば軽自動車なら3階まで行くことも可能です。ちなみに、沢田マンションには1階から5階直通の資材運搬用リフトはあるものの、エレベーターはありません。そのかわり、第3期工事終了後に増設されたのがスロープなのだとか。沢田夫妻の自由な発想が生み出した、電力いらずのバリアフリー設計ともいえます。

建物の中を歩いていると、気づくことがいくつもあります。例えば、緑が驚くほど多いこと。スロープ沿いで柿が実り、4階で松が伸びやかに枝を張り、そこかしこで季節の花が咲く。よく見ると、各階の外壁部分には土が盛られ、ひと続きの花壇になっています。この花壇は住民が好きに使えるようになっていて、草花を植えるだけでなく家庭菜園として利用する人もいます。何階に住んでいても1階で暮らすような環境を提供したい。その思いが大がかりな花壇を設置する動機になったそう。



今でこそ積極的に取り入れられる屋上緑化のルーツがここに
“何階でも1階のような暮らし”を最も体現しているのが、5階にある沢田家の住居でした。建物の頑丈さには自信があるから、と最上階に居を構えた沢田さん。敷地はおよそ100坪あるのですが、庭には何種類もの樹木が茂り、ニワトリが元気に走り回っています。外に目をやれば、眼下に高知市街地を望む素晴らしい眺望。その眺めがなければ、5階だとはとても思えません。

庭には屋上へ続く螺旋階段が設置されています。屋上にも、やはり驚きがありました。そこは沢田家の家庭菜園。いえ、約60坪もあるのですから、立派な農園です。栽培するのはお米や季節の野菜など。そもそもの発想が、断熱のために土を敷き田畑を造ったといいます。今でこそ屋上緑化は各地で積極的に取り入れられていますが、沢田マンションは1970年代半ばからこのスタイル。自分のマンションにも、こんな屋上があったら……。つい、そんなことを考えてしまいます。




すべての部屋が異なる間取り短期滞在用に貸し出す部屋も
沢田マンションは長屋的な造り、といわれます。その理由は、一風変わったベランダの設計にありました。通常マンションはプライバシーに配慮し、ベランダも戸別に板などで仕切るもの。ところが、沢田マンションのベランダには仕切りがなく、まるで廊下のよう。自由に行き来が可能なのです。そのため、カーテンを開けていれば誰に室内を覗かれても文句が言えないのですが、逆にオープンであるのはコミュニケーションをとりやすいことでもあります。これは、老人の入居者を念頭に置き、沢田さんが敢えて意図したこと。ここでは、時に隣人の顔さえ知らないマンションとは異なる連帯意識が住人の中で生まれているようです。 居住空間の設計も、実に独創的です。いくつか部屋を覗かせていただいたところ、同じ間取りはありませんでした。聞けば、すべての住居が異なる間取りだといいます。どうせ自分たちでやるのだから、と沢田さんが1室ごと考えながら造ったのだとか。ちなみに、完成当初は全部で85室あったそう。その後、スロープを造るために部屋を潰したり、小さな2部屋を改築して1室にしたりして、総数は減り現在に至ります。

利用法としては賃貸住宅とテナントのほか、ウィークリーマンションとして短期滞在の宿とする部屋も。マンションとしてはあまりない発想ですが、都心部でも立地条件によれば空室の有効活用になる可能性もあります。 今回、沢田マンションの中を歩いていると、改装中の部屋がありました。沢田一家が木材を切り、玄関を建て付け、黙々と働いています。建物自体の大きさはもう変わりませんが、内部は今も変化を遂げています。沢田マンション、まだまだ進化中。時代と共に変われる柔軟性があるのも、魅力のひとつかもしれません。

※本記事は2012年に取材したものです。現在の様子と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。
沢田マンションを建てたのは、沢田嘉農さんと裕江さん(66歳)ご夫婦。10年前に嘉農さんが亡くなられてからは、裕江さんと2人の娘さんご家族でマンションの維持管理を行っています。どうして、夫婦だけで建てることができたのか。これからの沢田マンションはどこへ向かうのか。沢田裕江さんにお話をお聞きしました。
――セルフビルドのマンションということですが、正直イメージが湧かないんです。基礎から内装まで、すべてやるわけですよね。
沢田:ええ、そうですよ。自分の家くらいならやる人もいるでしょうけど、ここまでの建物を造る人は日本でもほかにないと思いますよ(笑)。でも、それまでには建て売り住宅やアパートをいくつも建てて、研究をしていますから。最初は一軒家からぼつぼつと建て始めてね、だんだんとアパートに切り替えていって、あげく、ここへきたんです。その頃建てたものは、今でも高知市内にたくさん残ってますよ。

――最初からマンションという目標があったのですか。
沢田:実はね、日本中に点々と建てて、集金しながら遊んで暮らすっていう計画も立てよったけど(笑)。それは子どもができるまでの話でねぇ。子どもができたら幼稚園へ通い、学校へ通い、そうそう動けんようになるわけです。だから一カ所でね。とにかく100世帯を、って最初から思っちょったから。これは最初から決めちょった。何故かいうたら、100世帯あれば商売としてやっていける。お互い、貧しい暮らしから始まってるんで。でも、一人でできるわけじゃないから、一生懸命手伝おうと。それが始まりなんです。

――この場所で100世帯を目指したわけですね。
沢田:建て売り住宅やアパートだけで、100世帯はとっくに建ててる。でも、自分の持ち分として100世帯という目標ですから。建て売りの一棟なら、造るのに1カ月もかからなかった。その時は職人を2~3人入れてやってたこともありましたけど、このマンションは自分らだけで(笑)。この間も部屋を勘定しよったら、今は70戸にちょっと足らん。昔は小さい部屋でも6畳間にトイレと水道がついていれば人が住みよったけど、今はね、一人でも広い部屋を使うようになって、2部屋をひとつに改装したりしてね。完成したときは85世帯あったんですよ。
――間取りが全部違うと聞きました。
沢田:業者さんが建てるマンション、あのニワトリを飼うゲージみたいに同じのが並んでいるのが嫌いなのよね。なので、それぞれ違うの。お父さんそっちの部屋どうするの、じゃあ私こっちの部屋をこうする、って、次から次へやっていったもんで(笑)。今も改装しとる。年中やっとる。
――作業場が自宅と同じ5階にあります。
沢田:木は自分らの山で切り倒してね、ここで製材するの。最初は屋上のクレーンで木を引き上げていたのだけれど、不安定だから大きなリフトを作った。クレーンもリフトも、製材機も手造り。建物だけじゃなく、なんでも手造りぞね。そのかわり、設計図はない。みんな頭の中だから(笑)。今は孫が大きくなってね、建築の勉強をしたいと言うとる。一人前になったら、私の道具箱を譲っちゃろう思ってます。
――裕江さんもまだ現役でやってますね。
沢田:このマンションがほとんど仕上がったとき、ある人から「何かの拍子にこの建物がなくなったらどうします?」って質問を受けてね。「いやいや全然問題ないね、また建てるぞね」って(笑)。昔はそれくらい馬力があったのだけれど、今は無理がたたって足のスネが痛い。なので、大きな仕事はせんけんどね。でも、龍河洞の方に山持っちょうのやがけど、お父さんと開拓したところもあるけんど、そこ行ったらね、パワーショベルに乗ると、もう元気。足いらんじゃないですか、手があればいいから(笑)。若い衆よりかずっとやるのよ。体が勝手に動いちゃう。

――建てている時は、いろいろな苦労があったかと。
沢田:そりゃ、そりゃあ、話にならんですよ。いろいろあった。一番辛かったのは、スラブを打つとき。1期から3期に分けて順に造っていったのだけれど、床の部分は1回で打たなければならない。お父さんが配筋はしてくれる。その交わる部分を細い針金で全部を括らなくてはいけない。これに、どれほど時間が掛かると思う。一人ぞね。ふつうなら何十人かでやるけんど。最初はね、腰を折って作業するのだけど、しまいにはそれができなくなって、腹ばいになってね。その日、どこまで作業を進めるか決めて始めても、なかなか予定通りにはいかない。夜9時になっても10時になっても終わらないことがある。でも絶対に決めたことはやりきるの。これを建てるときは、お盆と正月しか休まなかった。でも、お盆と正月は、女は忙しいからね(笑)。
―途中で嫌になったりしませんでしたか。
沢田:やはりね、二人とも100世帯造りたいという希望が、夢があるじゃないですか。それに向かっているから、全然思わなかったですね。逆に子どもたちは大変じゃったでしょうね、お母さん現場行ったばっかりに家の中まで手が回らなくなるから。でも、やろうと決めたら、やったね。やりきったねえ。やはり夢があったから。夢と計画と希望がなければ、できん。
――ご主人の嘉農さんは、どういう方だったんですか。
沢田:私がちょっと病気になるとね、ご飯を食べなかった。私が食べられるようになるまでは、何日でも。心配して。そういうのがあったけん、ここまでこれた。ついていけた。1階のリフトのところに、お父さんの写真があるでしょ。敢えてあそこに置いてある。出掛けるときには「行ってきます」、戻ってきたときには「ただいま」って言えるところに置いてあるの。

――昔はこのあたりに高いビルはなかったのでしょうか。
沢田:当時はビルというものがなかった。水洗トイレがようやく流行ってきた頃で。だから、トイレは水洗にして。でも、初期の頃だから、水融けの悪い紙を流してよく詰まるわけよ。直すのに業者を頼めばお金が掛かる。で、どうしようかねえ、いかんねえ、と考えて、住人が家賃を納めに来てくれたときにトイレットペーパーを配るようにした。それがいまだに続きよる(笑)。
――屋上に土を入れたり、木を植えたりというのも、ここが初めてですか。
沢田:ここの前に3階建てを建てたときに、屋上がスラブだったのだけど、夏は3階が暑い。屋上に水を張っても、すぐに乾いてしまう。これはいかんということで、その経験を活かして、ここは屋上に土をいれたんです。すると、暖房も効くし、冷房も効く。バッチリ。どうせ土を入れたのだから、木を植えよう。芝よりは、食べるものがいい(笑)。じゃけん、木も梅とか柿とか、いざというときにはちょっとでも足しになるようにね。40年前からこの状態。今は東京でも上に緑植えたり畑作ったり。みなさん、ここに勉強に来るがですよ。

――あと面白いと思ったのは、部屋の前後がベランダなのか通路なのかわからない。
沢田:アパートいっぱい持っちょったでしょ、ここの前は8軒くらい。管理するにあたって、お年寄りがいる場合、おばあちゃんは呼べば出てきてくれるけど、おじいちゃんってなかなか出んのよね。で、中がどうなってるかわからんでしょ。それで、ベランダ側も通路のようにして。通ってみたら、だいたい様子がわかるようにね。みなさんが物言うて付き合えるようになるし。

――今は全く逆で、プライバシー重視ですよね。
沢田:そうよ、だから中で白骨化して見つかったり、女性が連れ込まれてもわからないし、事件がいっぱいじゃないですか。ここは、全然無いですよ。それでも、プライバシーがほしい、かっちりした部屋がほしい、そういう人は、ここにはよう住めんですよ。でも、ここでも戸を閉めてカーテンをすればプライバシーは守れるわけで。昔ね、あそこのおばあさん、いつも9時頃は電気消して寝よるけんど、今日はついちょるけどなにかあるがやないかね、とご近所さんが言いに来るわけですよ。で、行ってみると、倒れちょったりする訳で。近所の人も気をつける。
それから火事があったときにね、延焼したことが一回もない。今までに7回あったけど。おばあさんが、ニュース見よったら沢田マンションが焼けよるというので、外に出てみたら隣の部屋だった(笑)。仕切りがコンクリートやけん、そこだけ焼けたら終わる。ベランダを通路のようにしているのは、管理だけではなくて、火事の時に避難しやすいこともある。あと、修理などは自分たちでするので、高い足場がいらずにやりやすい(笑)。
――珍しいスロープも、これからのマンションに求められているかもしれませんね。
沢田:うん、どんどんスロープになると思うよ。エレベーターって地震の時は全部止まってしまう。もちろん非常階段があるんだけど、スロープやったらね、ストレッチャーだって移動できる。

――ある意味、先進的ですね。
沢田:お父さん、そういうことはすごく考える人でしたからね。知恵はすごくあった。スロープも後から付けたんだけど、部屋があった場所を突き破ってね。最初はね、自転車や乳母車が通れるくらいの幅で考えたんだけど、どうせなら車で上がれるほうがいい、って広くしたんです。
――スロープの他にも、あとからアイデアが湧いて便利にしたものはありますか。
沢田:ベランダのプランターもそうやね。最初は鉄筋の手すり。でも、鉄筋は錆びてくるじゃないですか。じゃあ、花壇にしちゃおうと。私はベランダの内側に花壇を作ろうって言ったんだけど、お父さんは、いやいや、それじゃあ雨に当たらん、って(笑)。地震があって、もしも外へ落ちたらいかんって私は思ったんだけど。あとね、地震の避難経路として、裏山へかずら橋のようなものを架けようかと思ってるの。津波なんかで、下へおりるよりも山へ登る方が早いし、裏山は避難経路になっているし。

――昔は、今よりも年配の住人が多かったんですか?
沢田:家族連れが多かったですね。子どもだけで60人くらい、全部で180人くらいの時もあった。今は一人暮らしの人が多い。
――最近の割合はどんな感じですか。
沢田:10のうちの6くらいは若い人かな。ボケよる暇はない(笑)。
――若い人が入ってきて、沢田マンションをネットなどで外へ発信していくようになりましたね。
沢田:そうですね。もともとはテレビに出たのが始まりではあるけんど。私はやってくれとひと言も頼んでいないけど、入居してる人が自然に引き継いでやっちょるね。
――どう思われますか。
沢田:ありがたいと思う。若い人がそれで楽しんでくれるのなら、いい。

――これから、どんなマンションにしていきたいですか。
沢田:住人が、部屋の中で孤立せずに、楽しめる場所ができるといい。冬になると、この庭で薪ストーブを焚くんですよ。するとお年寄りがぼつぼつとやってくる。でも外ではなく、室内にお年寄りが集まれる場所を作ろうかな、と。自分が年寄り組になったけん(笑)。この間、近所の民生委員の人が、沢田さん、どこか絵を描く場所はないかね、と言うんです。マンションの人だけでなく、いろいろなお年寄りが集まればええ。

――まだ、増築する予定はありますか。
沢田:増築はせん。屋上に柱が建っちょうのわかる? あれ、お父さんが亡くなる4日くらい前に建てたの。その思いは、わかっちょる。でも、今は時代が違うでしょ。昔は、許可が無くてもみんなバンバン建ててたけど。あるものを、きちんとして管理していくことは問題ない。上に建てるのは、いかん。お父さんにも、言うてあります(笑)。」
各部屋まで、車で行けるスロープの設置や、バルコニー側からのアプローチ、屋上緑化、セルフビルド、住宅以外の利用等、今で考えると先進的な考えが満載のマンションです。これからのマンションが参考にすべき点も多くあります。これを設計図もなしで、自分達だけで作ったと聞くと、驚き以外の何物でもありません。
確かに違法建築なのでしょうが?後々まで利用されながら残って欲しいマンションだと思います。
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